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クラシック音楽史末期の混沌

今日はスーツと革靴でカフェで過ごそうとホテルを出たら、雨。

アメリの恋人みたいなちょっといい男のフロントマンが、今日の午後と日曜日は晴れますよ、というようなことを言う。

英語よりずっと語彙数が少なく、文法も基本さえちゃんと理解していないフランス語なのに「なんとなく」度はむしろ高い。

フランス語のニュアンスは汲み取りやすいのかもしれないし、音楽で培った勘もいくらかあるかもしれない。

そうだ、ここで言おう!

「アプレ・ラ・プリュイ・ル・ブトン。」

一瞬、間があってから、

セッサ!セッサ!

ウケた。

雨のち晴れ、苦あれば楽あり、という意味。

数少ない、知っているフランス語の諺。

ついでに「レ・クロワッサン・ス・ネ・パ・デュ・パン(クロワッサン、それはパンではない)」も言いかけたが、やめた。

もっとフランス語、切磋切磋しよう。

今日は右岸で用を足し、学校によって自分の絵を取って来た。

毎日通っていた、モンパルナス墓地を突っ切るエミール・リシャール通りを歩いていて、ふと思い立った。

せっかくだから、サン=サーンスのお墓参りをしよう。

やっとみつけた13division84番のサン=サーンス家のお墓。

番号がお墓に書かれていないのだから、探すのは大変だ。

国葬された作曲家なのだし、今も人気はある。

もっと献花だらけかと思ったら、そうでもなかった。

こちらに来るちょっと前に、知人と動物の謝肉祭の『水族館』を連弾した。

ポスト・ロマン派でありながら、音楽的教養のために印象派に抵抗を示した彼は、ドビュッシーとはお互い批判的であったらしい。

しかしながら、この『水族館』という曲はとても印象派的な、サン=サーンスの作品の中で特別な曲である。

19世紀、音楽史は忙しかった。

まず、この世紀初頭、前記ロマン派の時期は混沌としていた。

なにしろ、ベートーヴェンはショパンやシューマン(1810年生まれ)やリスト(1811年生まれ)のこれからという頃、1827年まで生きていた。

ベートーヴェンの弟子のカール・チェルニー(1791-1857)はピアノの大御所だった。

ドビュッシーは1862年生まれ、ラヴェルは1875年生まれ。

前期ロマン派三羽烏と半世紀のタイムラグがある。

そのブラックホールに、サン=サーンス(1835-1921)とブラームス(1833-1897)がいる。

クラシック音楽というものは、一般に思われているよりずっと短命だったと思っている。

バッハがバロックとそれ以前を総括したように、ドビュッシーやラヴェル以前に膨大な音楽知識をドビュッシーにさえ認めさせたサン=サーンスが一つの総括をしていたのかもしれない。

サン=サーンスは、ショパンの葬儀が行われたマドレーヌ寺院の専属オルガニストを務めていた。

MONOPRIXでマドレーヌを買ってこよう。

安いのだけれど、量が多すぎるので躊躇っていた。


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